債務整理を弁護士が詳しく説明します。

南森町佐野法律特許事務所 弁護士 佐野隆久

電話 06−6136−1020

所在地 大阪市北区天神橋二丁目5番25号若杉グランドビル7階

大阪府東大阪市の裁判管轄情報【債務整理・自己破産の管轄】を大阪の弁護士が詳しく説明します。

裁判管轄とは、その地域の裁判について、どこの裁判所が受け持つことになるのか、ということです。

自己破産では、原則として、自己破産を申し立てようとされる方の住所地を管轄する裁判所が、裁判を受け持つことになります。

地方裁判所の管轄  名  称  大阪地方裁判所

              所在地  大阪市北区西天満二丁目1番10号

              電  話  0663631281

市の位置
東大阪市の位置マップ 東大阪市は、河内平野のほぼ中央部に位置し、西は大阪市と、南は八尾市と、北は大東市と接し、東は生駒山系で奈良県と境を接する、面積61.81平方キロメートル、人口約51万5千人の都市です。

交通アクセス
アクセスマップ
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本庁 〒577-8521 荒本北1丁目1番1号
TEL:06-4309-3000(代表)
※業務時間外・休日の緊急時は
06-4309-3330(宿直室)

外観写真

午前9時〜午後5時30分
   

土・日曜日、祝日
年末年始(12月30日〜1月4日)
   
情報サービスコーナー (1階)
市民ロビー (1階)
多目的ホール (1階)
ATMコーナー (1階)
展望ロビー (22階)
市民ギャラリー (22階)
   
  駐車場(有料)



大阪府東大阪市の沿革

国名 河内 

明治22年4月1日市制町村制施行時

太平寺 岸田堂村ほか4か村が合併し、布施村

森河内村ほか5か村が合併し、高井田村

衣摺 柏田村ほか5か村が合併し、長瀬村

トモ井村ほか2か村が合併し弥刀村

上小阪村ほか3か村が合併し、小阪村

御厨村ほか4か村が合併し、玉川村

出雲井村ほか2か村が合併し、英田村

若江南 若江北村が合併し、若江村

岩田村ほか4か村が合併し、玉川村

出雲井村ほか2か村が合併し、枚岡村

神並村ほか3か村が合併し、大戸村

日下村ほか3か村が合併し、日根市村

横小路村ほか3か村が合併し、枚岡南村成立。

池島村は、そのまま自治体を形成。

市場村が三野郷村の一部となる。

明治29年 中河内郡を設置、当市域は、中河内郡に所属。

大正元年、日根市村が孔舎衙(くさか)村と改称。

大正14年、布施村 小阪村に町制施行され、布施町 小阪町となる。

昭和4年、枚岡南村と池島村が合併し、縄手村となる。

昭和6年、西六郷 北江 東六郷が合併し、盾津村成立。

昭和8年、布施町と高井田村が合併し、布施町成立。

昭和12年、布施 楠根 小阪町、長瀬 弥刀 意岐部村が合併し、布施市成立。

昭和14年、枚岡村に町制施行 枚岡市

昭和18年、盾津 玉川村に町制施行、盾津町 玉川町

昭和25年 大戸村に町制施行 石切町と改称

昭和30年 盾津 玉川町と英田 若江 三野郷村が合併し、河内市成立

同年 孔舎衙村 縄手町 石切町 平岡町が合併し、枚岡市成立。

昭和42年 布施市 河内氏 枚岡市が合併し、東大阪市となる。


大阪府東大阪市の概要

地理

大阪平野の東部に位置する。市域の大半は平坦な低地で、河川の多くは天井川である。そのため1976(昭和51年)の大東水害では大きな被害を蒙った。一方で市東部は生駒山系の山々が連なっており、豊富な自然が残されている。主な河川には、長瀬川恩智川玉串川第二寝屋川などがある。

歴史

令制国でいうところの河内国中部にあたり、古代にはこの一帯は河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であったが、次第に海から分離して湖となった。その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化したが、こうした経緯から湿地・深田が多く、また洪水に見舞われやすい土地であった。

古くは物部氏の本拠地があり、物部守屋の最期の地は衣摺(きずり、市西南部)であるなど、早くから開けた地域であった。

飛鳥時代などには中国大陸への玄関口であった難波津との街道筋にあたり街道筋には多くの集落ができた。

奈良時代になると、平城京と難波津を結ぶ街道が整備され、その街道筋にも多くの集落ができた。

平安時代になり、熊野詣高野山上皇貴族参詣に訪れるようになると、その街道であった高野街道の沿線であった市の東部の生駒山麓に多くの集落ができた。

平安時代には、枚岡神社の勢力が大きく、それを背景とする水走氏が有力な領主として市東部を中心に活動した。

室町初期、河内守護に任ぜられた畠山氏若江城を築き、河内を統治する拠点とした。以後畠山氏の守護代の遊佐氏がこの城を治めるが、応仁の乱やその後も続いた家督争いによって衰え、城主は細川氏遊佐河内守長教三好氏など転々とする。最終的に城は織田信長の家臣となった三好義継の旧臣の若江三人衆が治め、石山本願寺攻めが始まると織田方の拠点とされ、織田信長もこの城で指揮を執るなどしたが、両者が和睦した後に廃城とされた。またこの付近は大坂夏の陣における若江の戦いの舞台としても知られ豊臣方の将木村重成の終焉の地でもあることで知られる。

江戸時代中期以降、中甚兵衛らの嘆願によって大和川の付け替え工事が行われると新田開発が大坂の商人らによって積極的に推進された。また商品作物の栽培も盛んで、木綿の産地として名の知られた存在だった。

東大阪市の中央部は長い間、湿地帯で開発が遅れた。東大阪市の市域で早くに開けたのは、旧大和川の流域と高野街道沿いの地域である。また、中甚兵衛の大和川の付け替え工事の嘆願によって、大和川が付け替えられるまでは、中央部の低湿地帯の開発が遅々として進まず、室町時代以降、河内国の行政の中心であった若江城でさえ、四方を沼地に囲まれた難攻不落の平城として記録されている。


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